それは、マテウス・ロゼのせい

 頼まれた酒を買って彼女の部屋の扉を訪れると、ゴマ油の香ばしい香りが玄関先まで漂ってきていた。
(あ、今日は中華だ)
 すぐにピンときた。それで、この酒――マテウス・ロゼ、これは中華料理にも合うワインだ――を指定された意味がわかった。
 俺の彼女は料理がうまい。週末婚のような付き合いもそろそろ二年半になろうとしていた。その間、彼女の手料理を色々いただいたが、俺が好きだとあって中華料理を頻繁に作ってくれていた。
 その中華料理の中でも一番好きなのは、激辛麻婆豆腐だ。これがまた、絶妙な辛さ、まさに俺のために辛味を調合しているかのようで堪らない。他にも、手間暇かかる春巻きや餃子は前日から下準備してあるし、ニラ卵だっていつもフワフワの焼き加減である。ああ、こんな飯が食べられて、つくづく幸せだと思う。
 そんな彼女の手料理とともする酒は、大体はビール。俺は料理の味付けは『辛い』にこだわっているが、酒に関してはそこまでではない。俺としてはいつも通りのビールでいいのに、わざわざマテウス・ロゼをリクエストする理由がわからなかった。
 まぁビールに飽きたんだろう、そのくらいの気持ちで俺はリヴィングダイニングへ足を踏み入れた。
 
 テーブルには箸がきちんと並べられ、二枚の大皿にドーンと青椒肉絲と麻婆茄子が盛り付けられていた。青椒肉絲には、緑のピーマン以外にカラーピーマンが混ざっている。どうやらピーマンを象徴する緑色をごまかしているらしい。麻婆茄子には白い豆腐の断面ではなく、紫の皮がつやつやと光る茄子の細切りが折り重なっていた。
「何、これは?」
「見ての通り、悠斗の好きな激辛料理。今日は四川バージョンにしてみました」
 ニコニコ顔で彼女は説明した。
 確かに、香りはゴマ油で間違いない。豆板醤の風味も微かに鼻に刺さる。
「四川は四川でも、他にもメニューはあるだろう」
「えー、もう麻婆豆腐は飽きたよー」
 買ってきたマテウス・ロゼをデキャンタへ移し替えながら、彼女は珍しく自分の希望を口にした。
「俺がピーマンとナスが好きじゃないのを知ってて、普通、出す?」
「だって、別のピーマン料理だともっと食べないでしょ? ナスだってピリ辛にしたんだから! それに、好き嫌いは、いきなりは直らないでしょう?」
「そりゃまぁ、そうだけど……仕事ではきちんと食べてるよ。オフのときぐらい勘弁してほしい」
「ま、ま、そういわずに、たまには、ね?」
 首を傾げ上目遣いでお願いされると、おねだりする猫みたいで「うっ」とくる。その表情は反則だろう。
 一応、味付けは俺の好みにしてあれば無下にもできず、渋々了解した。
 デキャンタと一緒に冷やしてあったグラスにマテウス・ロゼを注ぐ。いつものように並んで座れば、食事が始まった。
 
(なんだって、急に……ガキのしつけじゃあるまいし)
 作ってもらった手前、渋々と口に運ぶ。だが、一口かじって心地よい違和感を得た。
(あれ?)
(あまり、臭みがないな)
(こっちも……辛味がよく染み込んでいてぱさぱさした感じがしない)
 想像していたのとは味が違っていて、調子が狂う。箸を動かす手が止まらない。
 気がつけば、すべて平らげていた。
 空になった皿を見て、彼女は満足して微笑んだ。
「全部食べてくれて、ありがとう♪」
「いや、まあ……な。腹も減っていたし……」
 照れ隠しにマテウス・ロゼを大きく煽る。爽やかな泡が口いっぱいに広がった。
(しかし、今まで俺は、ピーマンとナスの何が嫌いだったのだろうか?)
 なんかしてやられたような気になるが、彼女が喜ぶから、いいとしよう。
「じゃあ、今度は甘口カレーに挑戦ね♪」
「は? 甘口? カレーは辛口だろう!」
「うん、今までは、ね」
 しまった、調子にのせてしまったかもしれない。甘いカレーなんて、それこそガキの食べ物だ。
「だって、お子様のカレーは『甘口』だから」
 俺の心の声を聞いていたかのように、彼女は繰り返した。
「子供のカレーは、甘口よ、普通は」
(え? それって……)
 グラスを置いて隣りの彼女を見れば、頬を桜色に染めた横顔があった。髪をラフに結い上げて、露わになった細いうなじも、ほのかに桜色。普段ここにはないマテウス・ロゼのフルーティーな香りが、やけに鼻についた。
(子供のことを言うなんて……)
(それに、普段と違う酒を用意するなんて……)
(まるで、お祝いのようじゃないか)
「もしかして……できた?」
 最初が最初だっただけに、レイプまがいのそれを思い出せば、少し罪悪感がわき上がる。でもあのときは、彼女の記憶へ俺のことを刻み付けるのに必死だった。わざと卑猥な言葉を使い、拘束して自由を奪い、避妊など論外の行為に及んでしまった。
 もちろん、今は違う。きちんと確かめ合って、相手を尊重し、避妊も完璧だ。
 だから、できているはずはない。それに、今日は口当たりいい酒のせいか、彼女もたくさん飲んでいる。子供のことを考えれば、そんなことをする彼女ではない。
「ううん、違うけど……」
 こちらには視線を向けず、残りの白米を食べている。やっぱりと思いながら、次を促した。
「違うけど?」
「うん、そろそろ……いいかな、って……」
 やはり視線はそのまま。うつむき加減でぽつりという彼女のうなじがさらに赤くなり、もう耳まで真っ赤になっていた。匂い立つマテウス・ロゼの香りが強くなった気がした。
(もしかして、俺の思っていること、当たってる?)
(もし、それがそうなら……)
「うん、食べる! 何でも食べる! 文句言わずに、全部食べる!」
 居ても立っても居られなく、椅子を撥ね退けて立ち上がり、強く宣言してしまう。
「悠……斗?」
 俺の声に、大きく目を見開いて彼女が振り仰いだ。見上げる瞳は潤んでいて、瑞々しい果物のような艶をのせていた。驚きと喜びの混ざったその顔が愛おしい。もう堪らなくなって腕を伸ばし、彼女を椅子に閉じ込めて唇を重ねた。
 
 柔らかな唇から、マテウス・ロゼの吐息が零れる。彼女の髪からもマテウス・ロゼのフルーティーな香りが漂って、鼻奥を擽る。触れる頬が熱い。
 軽く触れるものだったのが、舌を絡ませるキスに変わる。そのキスの合間にとっておきの情報を教えた。
「そう言えば……誰かが言っていたぞ。イってるときにできた子は、男らしいって」
「それ、本当?」
 いつでもキスが再開できる間合いで、クスクス笑って彼女が訊いてきた。
 それが本当かどうかは、わからない。
(本当かどうかはわからないけれど……)
「ふたりで、ヤって、確かめてみる?」
「悠斗は、男の子が欲しいの?」
 それは、考えたことなかった。だから、本音を言う。
「特には。俺はどっちでも。元気な子供であれば、どっちでもいいよ」
 こうして上から彼女を見下ろせば、襟奥にきれいな鎖骨のラインが見え、その先に続く色づいた双丘がこの上もなく魅惑的だ。
 善は急げで、奥のベッドルームへに目配せすれば、彼女の首元の桜色がさらに濃くなった。
「そうね」
 と、少し渋る。
(おい、子供を作る気、満々じゃないのか?)
  挙げ句、俺と彼女の唇と唇の間に、小ぶりな手を割り入れて、キスまでお預けにされてしまう。
「順番を……守ってほしい、なぁ~って」
 またあの上目遣いで、要求された。
(順番……ああ、そうだ)
(今のままでは、シングルマザーになってしまう)
「それは、もちろん。じゃ、部屋へ行こうか」
 せっかちに、俺も要求してしまう。
「でも、その前に……」
 まだキスを塞ぐ手を、彼女は引いてくれない。
(今度は、何だ?)
 イライラしてくるが、ここは我慢だ。もう、すっかり飢えた野獣が、この体の中にいる。
「でもその前に、悠斗は好き嫌いを早く直してね」
 ここにも余裕の笑みの彼女がいる。さながら、熟練の猛獣使いかのように。
「じゃないと、子供が真似しちゃう。好き嫌いしないように、悠斗が手本を見せてあげてね♪」
 
 
(おしまい)